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唇の傷

高嶺の花は見上げるより登るに限る

らっていないことが

みなさん、ご機嫌いかが?

11日はいつもお世話になっている「透綾工房」主催の新年会に出席しました。

「透綾工房」は古い着物を生かす為のあらゆることをしています。

着物や帯を使った小物作り、着物のお仕立て、着物から羽織や道行や帯へのリフォーム、洗い張り、湯のし、染め替え等、着物を再生するあらゆることを頼める頼もしい存在です! 

11日12時から高松市の「花樹海」で新年会が行われました。

会費は7000円です。

ちょっとお高いのは芸者さんを呼んだからです。

生まれて初めての芸者遊びですラブ

総勢37名の出席者のほとんどが着物で出席していました。

圧巻です!

ほとんどのかたが訪問着でした。

花樹海のロビーは花が咲いたように華やいでいました。

私は華やかな桜と琴の柄の小紋にパステルカラーの菱柄名古屋帯、帯留めはおめでたい扇形に桜模様の磁器製です。


上着は濃紺の長羽織で引き締めました。



会費を払って、いよいよ宴会場に!

入り口で芸者さんがお出迎えしてくれました。


オ~!フジヤマ!ゲイシャ!!

心の中で叫びましたびっくり

なんか感激ですv(^o^)


席についたら豪華なお料理が次々と運ばれて来ました。

乾杯したら、芸者さんがお酌に廻って来てくれました。
日本髪にお引きずりを着た芸者さんに目が釘付けです目

ちゃんと首の後ろまで白塗りしてる~!

カツラに白粉がついてる~!

変な所に目がいってしまいます。
宴もたけなわになり、芸者さんの躍りが始まりました。


オオ~!コレガゲイシャサンネ!

いちいち外国人みたいなリアクションになってしまいます。

オミゴトネ~!

最後は盛り上がって参加者も踊りに参加しました。

芸者さんと記念撮影してもらってゴキゲンです爆笑

芸者遊びは粋な心遣いが必要です。

会費とは別にポチ袋に入れたご祝儀が要ります。

いくら入れるのかは自由です。

相場が分からないので、友人と示し合わせて同じ額を入れました。

「10円ばかりだったらすいません」と主催者さんが、冗談を言っていました笑い泣き

2時間があっという間に過ぎてお開きになりました。

楽しかった~!

是非、来年も参加したいと思いました。

帰りにもデヴィ夫人似の美人芸者さんと記念撮影してもらいました。

芸者さんの所作が美しい!

オマケ

お母さん、ワタシをほったらがして遊んできたの?

オヤツくれたら許してあげますもぐもぐ


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私 モモタ 茶々より愛をこめて恋の矢































































































































































最終電車、久しぶり。
泥酔、爆睡、座席を目一杯使ってる人、人、人。
人の領域、自分の領域、そんな線引き無縁のボーダレス?シート。

地下鉄、隣のお兄さん、6人用座席、横になって夢の中。
どんな夢を見てるのかな。
お家のベッドか、はたまたリビングか???。
赤の他人がその超リラックス姿を見ると、ちょっと引きますが。
無防備、平和な日本。

地下鉄最終電車は、当然地下鉄の終点までしか辿り着けない。
その時間には、地下鉄に連結している私鉄の駅、ホームは真っ暗、営業終了だ。
映画みたいに、念力でぱぱっと照明が灯るといいが。
その駅からタクシー。
もったいないけど仕方ない。
でも運転手さんはもうけ時。祝日前日、大歓迎。
火曜日なのにハナキン気分。

とは言え、あまり人影はない、タクシー乗り場。
不況の中、週の半ばで最終駅からタクシーに乗っているマヌケは私ぐらいか?

祝日が増えても、嬉しくない人もきっと多いだろう。
家に着く前、ほんの束の間、
電車の中で見る夢が、一番楽しいSTORYなのかも知れない。



前に、劇団四季のミュージカルを見たことがある。
前田美波里が、のっぽの友人ターニャ役で出演していたが、とても素敵だった。

今回は映画。
メリル?ストリープが、年齢的なハンディを乗り越えて
(御年59歳、今年還暦!!アラカン世代の星!!)
イキイキ、歌に踊りに、名演技を惜しげもなく披露していた。
ピアース?ブロスナンは、カッコはよいのだが、
歌、演技とともに、ちょっと????
歌も、交互に歌うメリル?ストリープが上手すぎるので、目立ってしまう。
姿は、とってもいいのだが、????。

前半では、中年総動員でパワー全開の大騒ぎドタバタが続き、
跳んだり跳ねたり、大奮闘。
(体って、いくつになってもあんなに動くものなんだ。
でも、鍛えてないと無理だろうけれど???)
ちょっと頑張りが痛々しいかんじだったが、
後半のシリアスなトーンになると、メリル?ストリープの名演技が光る。

娘ソフィーの水着がダサイ、とコメントしていたブログがあったが、
私はそんなことは、全く感じなかった。
(というか、そんな風に感じる人もいるという感性の違いに、驚いた)
というより、ヘタに水着なんかで演出しなくてもいいぐらい、
若いみずみずしいソフィーが眩しく輝いていた。
(獲れたての魚は、あれこれ手を加えるより、新鮮なお刺身が一番!)

「ホテルもボロイ」との感想もあったが、
それは、あくまでもストーリーの味付けなので、味わいのひとつとして楽しんだ。

浜辺で、モーションをかけてくる若い男性をのっぽのターニャがたしなめるシーンは、
劇団四季では同じく前田美波里が演じていたが、映画もとても、楽しめた。

娘に花嫁衣裳を着せるシーンでの曲「Slipping Through My Fingers」で、
涙腺の防波堤が、ぷつんと切れた。
それからは、涙、涙、涙???
無理っぽい筋立てなんか、まったく気にもとめず、
美しい島の風景に溶け込んだ、歌と踊りの世界に、どっぷり。

ABBAの音楽
心臓の鼓動のリズム、血液が逆流しそうなぐらい、
体中から、ノリノリ感が湧き出た。
とても楽しく、元気が溢れ出た。
涙も、いっぱいあふれた。
悲しい場面もさることながら、楽しい場面ですら涙が頬を伝った。
なぜなんだろう???
それぐらい、歌や踊りは、感動を与えるということか。

私はリアルタイムでABBAの音楽を聞いていたわけではないのだが、
少しは重なる時期がありそうだ。
私の世代、特に娘がいる母親、そういう背景が加わると、
また一段とリアリテイが加わる。

メリル?ストリープは、「プラダを着た悪魔」の時の、冷静な上司役、
「マディソン郡の橋」の時の、真摯な主婦役、
私が映画館で観た、それぞれの役柄を、それぞれに演じきっていたが、
本当に幅広い演技派女優だ。
これまで以上に、彼女に興味を持ち、これからの作品にも期待する。

最後のショータイムシーンでは、ビートアップしたまんま、
劇場でアンコールしているような臨場感。
ラストの歌「Thank For The Music」で、また涙が???まさに、クールダウン効果。
最初から最後まで、最高にビビッドなエナジーを与えてくれた映画だった。



「メリル?ストリープ唯一のミスキャスト映画」
「好きな人にとっては、好きな映画」
「中年狂乱舞動画」
「中年悪趣味ショー衣装」
との酷評もあるが、そんな全世代全員一致で大絶賛なんて、ありえないので
全く聞く耳を持たず。

楽しんだ人が、勝ち!!



ばたばた全力で駆け込んだ地下鉄。滑り込みセーフ。

さて、隣の席の太った女性、太りすぎで窮屈。
しかも少々臭い。
妙齢というにはちょっと過ぎているものの、
女性なのに、臭いというのはいかがなるものか???。
隣の人(私)は、かわいそう。

それに対比するように、真逆の向かいの女子高生、
下着が見えそうなぐらいスレスレの短いスカートから、生太もも。
彼女イナイ独身男性には目の毒。鼻血もの。
せめて、足をちゃんと揃えて座るわけにはいかないのか?
おばあさん(私)は、よくまあ寒くないなぁと感心。血管、寒そう。

そして
前に立ってる若い男性二人、女性の品定め、品評ばかり。
そんなけしからん高飛車発言を延々とするのは、何様なんだろうと、見てみると???。
チビデブと、カマキリのっぽ。映画に出てきそうな不細工コンビ。
そういうのに限って、いっちょまえに、女性のことをあれこれ難癖つける。
相手にしてもらえてないような男性に限って。
みっともないし、惨めだから、やめたほうがいいのに。
本人たちは、なぜか気がついてない。そんなものだ。

次から次へと、いろんな人、仕草、ことがら、モノが目に飛び込んでくる。
地下鉄には、いろんな人がいる。

ちなみに私も、ベラベラしゃべっていたりすると、
ジロっと見られることがある。
私のことも、ウォッチングされていないことを願うばかりだ。




わたしの蝶ブログ、「リンクしていいですか?」と、わざわざご丁寧にも、お尋ねがあった。

じつのところ、最初は、ちょっと戸惑った。
どんなブログかもわからないので。

わたしは営利系?広告が、ばんばん入っているものや、集客意図のあるものは辞退している。
販売や営業が目的で、スタッフがブログを書いているものも、Noさんくす。

スタートしたばかりのブログのようだ。
他にリンクしてあったブログを見て、これならOKと思った。(何様発言、わたし)

わたしの悪いところでもあり、良いところでもあるのだが、
実態が伴わないくせに、やたらプライドだけは高い。
理想が高いが、それなりに努力もしている(つもり)。
ちょっと、痛々しさ満載だが、人のことばかりを意識していると、自分がなくなる。

なので、未完ではあるが、走り続ける。
(といっても、実際は、亀より遅い)

若い人たちと感覚が合うかというと、毎日、顔を合わせている若い衆(こどもたち)に、
ことあるごとに「昭和のニオイがする」と言われている。
言っている本人だって、昭和(末)生まれ。
最近、平成生まれが周囲に出てきて、昭和生まれを意識するようになったのか?
かなしき、アラサー。
わたしは、実り多きアラカン目指して、まっしぐら。

へんに若いと、年齢が気になるようだが、
ある程度、年を重ねると、意外に楽しいものだ。
お年寄りはみんな、老化をはじめ、年によるあれこれを嘆いているが、
ひとりぐらい楽しい年寄りがいても、いいんじゃないか?
なんて、老化も、まだ深刻ではないから、無知ゆえの軽薄な言葉を平気で吐いているのだろう、わたし。

が、楽しい自分がいいに、決まっている。

今年も楽しく年を重ねたい。



長い長い長い、年末年始が終わった。
2016年、やっと平常モードに戻りつつある。

年末から年始にかけて、民族大移動。
それぞれの核家族が、実家に帰省する。

長女一家は、お婿さんの実家へ。
ちょうど、関西と関東の境目ぐらいの位置か。
年末の一週間。
あちらのお父さん、お母さん、ご苦労様。
一番、手のかかる乳幼児連れが、一週間も滞在。
日頃、老夫婦、二人だけの静かな生活に、若手が、どかどか乱入。
しかし今回は、まだお婿さんのお兄さん一家も同時滞在、芋の子を洗う戦場でなくて、よかった。
一緒だと、お風呂の順番なんて、なかなか回ってこないと、長女が言っていたような気がする。

我々は、夫の実家へ。
日頃、老人一人住まいのところに、大人が3人加わる。
義母とのやりとり、どっと疲れる、嫁のわたし。
風習だの、慣わしだの、伝統だの、簡素化しようとするわたしと、
体が動かなく、記憶もだんだんぬるくなってきているのに、想いとアタマと口の達者な義母と、ことごとく衝突。

お正月明けて、長女一家、乳幼児連れが、どかどか4人乱入。
むこうの、お婿さんのご両親、おそらく万歳三唱。やれやれ、と。

こちらは、迎春準備はバタバタだったものの、明けて、大人だけの静かなお正月に、活発どたばた世代が増加。
ダイニングキッチンは、ぎゅうぎゅう詰め。

さらに、そのメンバーで、今度は、わたしの実家にGO。
実家では、姉一家(姉夫婦、シングル甥っ子や、ちび連れ姪っ子たちファミリー)と合流。
若いお婿さんは、これで、3人に。
母や兄たちは上座に鎮座。
各世帯、お年賀品?交換会、物流、交流、わーわー。
老若男女向き?和洋折衷?昼食、お茶&和菓子、コーヒー、と、進んで、あっという間にお開き。
ばたばた。


各家々に三々五々の後、我が家には、うちの長男が帰省。
我が家が、「モノが多すぎる」と、長男による断捨離の粛清が始められる。

ぽいぽい、ゴミ袋に入れる息子。

「それは、捨てたらあかん」
「どう見ても使ってないで」
「これは、大事に取っておいているものなんやから」

「賞味期限、過ぎてる」
「塩昆布は、べつにいいのよ」

「こんなもん、まったく要らんものや」
「いや。要る。わざわざ買って、集めているんやから」

あちこちで、すごいスピードで、ゴミ箱行きに仕分けされる。


息子が帰ったあと、捨てられたものの中から、執着心のあるものをわたしは、レスキューする。
が、息子が言う通り、なくてもよいものばかりではある。
が、見切りをつける期間が、わたしと息子では、時間の長さが違うのだ。

次女は、
「お兄ちゃん、一年に一回しか帰ってこない、実家の大掃除して、どうする気や?」
と、冷ややか。

義母宅の冷蔵庫を賞味期限切れチェックをして、はるかに賞味期限が切れているのを見て呆れておきながら、
自分の家では、息子に呆れられている。

自分の実家に訪れる身でありながら、子供に実家を訪れられる身、同時進行している。
核家族が、いっぱい。
交通整理しないと、統制がとれない。
求心力、まとめ役、牽引役が必要である。

子供は、あと30年すると、自分の子供(わたしの孫)に実家を訪れられ、実家を訪れられる気持ちがわかるだろう。
そして、子供と孫が、「おばあちゃんち」として、うちを訪れることになる。
我々は、30年先、実家を訪れるとすると、そこには誰が住んでいるのか?
我々? ひ孫? それとも、Nobady?
メビウス状態になってきた。


実家に移住しないで、自宅から通って管理だけするとするとしても、
高齢になって自立できなくなると、自分は老人ホームに入ろうと思っている。
管理は、子供にバトンタッチということになる。
子供も高齢になってくると、管理は孫にバトンタッチということになる。
管理費は、どこから捻出する?
遠方にいる場合は?

よほどの信念と経済力がないと、困難である。
親が居なくなると、売却してしまい、はい、それでオシマイ。
死んで、あの世から化けて出てくるわけにはいかないので、自分がいない後のことなど、
だれが約束してくれようか。
(存命のうちに自分の家を売却する人もいる)

核家族になって分裂して、消滅して、それでオワリ。
これをあきらめるのか、自分の目の黒いうちに、スピリッツと資金を残しておくのか。
そのつもりにしていても、
自分の死に際に、予想以上におカネがかかってしまって、残す資金がなくなってしまったら、それはそれで、しかたない。
老人ホームに入るプランは立てられても、死期プランは立てられない。
その時はその時。どうせ、自分はこの世にいないのだから、どうなっていてもわからない。
せめて遺言だけは、残しておこうと思う。

通いで管理するのがだんだん、体力的に辛くなって、軸足を実家に移すかも知れない。
軸足を移す時の準備をしておくのも、選択肢のひとつではある。


5年後には、夫は、仕事を減らし、義母は、通院か入退院で、自宅と病院を行き来か、老人ホームを検討。
あと10年すると、夫は完全にリタイア、義母は、あの世とこの世の中間。
その頃、わたしはどんどん下り坂、順調な老化のカーブを曲がっていると思われる。
やりたいこともやりつくし、
というか、やりたいことを続行しようとすると、老化などで、支障をきたし、やりたいことが出来なくなっておもしろくなくなって、したいことを変更しているかも知れない。
その微妙な頃は、親を見送る時期と重なることだろう。
親の介護に専念したとしても、そろそろ本格的に介護という覚悟が自分の中で出来上がり、
やりたいことも、見送りも、「やり残した感」はそうないと予想する。

しかし、70歳ではまだヒヨコで、80歳にならないと、老境に突入しないかも知れない。
自分の老いとの闘いは、80過ぎてから、85ぐらいで本格的かも。
その頃には、親はあの世に行っている(はず)。
本腰入れて、自分との老いと向き合うことになる。

今回、息子にも言われた。
自分の入りたい老人施設、決めといてね、と。
順調にいけば、まだじっくり時間はある。
今から20年~25年の間に決めよう。
あ、その前に、義母。


なるように、なる。
なるようにしか、ならない。



年越しそばの後、深夜にごそごそ、やっとこさ、まだ終わっていなかった元旦の準備が出来、今はお風呂の順番待ちです。
迎春準備は、そうとう遅刻しています。
最後に、迎春用?箸袋に一人一人の名前を筆ペンで書いて、とりあえずは、終了しました。

〆縄、干支置物、おふだ交換、鏡餅をセット(鏡餅?大小、ともち、だいだい、ウラジロ、干し柿)、迎春用お椀&小皿、おせち料理作り、などなど、迎春設えの最小限のことをしました。
あまり、凝りません。
伝統は最小限にしないと、負担が大きいと、次代には繋がりません。


こちらでは、お年寄りの話をよく聞きました。
皆さんの行動や考え方、同じ高齢者でも、ダンスの人々は、ちょっと特徴が違います。
ある意味、特殊かも知れません。
でも、超個人主義で気持ち良いぐらい、自分を大切にしているように思います。

この地域は、田舎で、考えが古く、さらに、親の年代の人(義母)としか話さないので、あまりの価値観や関心事、関わっていること、日常生活の違いが大きすぎて、宇宙にいるようです。
猿の惑星か?
一方通行の話を一方的に聞かされると頭痛がしてきます。
まだ、義母は、自立していて、しっかりしていますが。

年を取るということは、重く苦しく哀しいですが、逃れられない運命です。
大先輩のお年寄りたちは、現世に、しがみついているように見えます。
私も25~30年後はそうなるのでしょう。
いつまでも引退しない長老たち。
引退、勇退の美学など、彼らの辞書にはありません。
私もきっと同じ道を行くと危惧するので、非難はできません。
迷惑をかけまいと必死で自分の道を歩こうと頑張っていますが、特権や利権は手放しません。
手放すと、もう、座敷牢の世界が待っている恐怖と闘っているのでしょう。
崖っ淵。
安らかに老いるというのは、口先だけのキレイごとだと感じます。

夕方には、長女一家が、娘婿の実家から自宅経由で、こちらに到着します。

本年もどうぞ宜しくお願いします。




朝からバタバタ、お手伝いのおばあさんと、義母。
彼女たちは、同じ年。
一方は、雇い主で、一方は雇われ人。
同じ年齢の超高齢、ご近所住まいなのに、不思議な構図です。

私の仕事は減って楽なものの、あんな高齢の人に仕事をさせるのは複雑な心境です。
が、経済活性化や、人材活性化、生き甲斐?のためにも、悪くないようです。
私の布団も彼女が敷いてくれたもの。
「朝は早く起きてこないでね」と義母からの要望。おもしろいです。
ここでは、超高齢者の皆さんは、お元気です。

もう一人、私と同じような世代の便利屋さんお助けマン女性がいます。
彼女はさすがに、フットワークが軽いです。
掃除や買い物、スイスイ。私設?家事ヘルパーさんのようなものです。
彼女は、頭脳明解、高学歴。
アタマも体も回転が早いです。

私は彼女たちの間を縫って、ぬらりくらりと仕事しているような、していないような。
おそらく、「なにもしない人」という烙印、評価だと思いますが(心の中で皆さん、思っていることでしょう)、受けいれています。
昨日は、超時間続く、義母のパワフル機関銃トークに、すっかり疲れました。

さて、大晦日。
それぞれのワールドで、のびのび頑張ることにします。
午後に次女がやってきます。

良い一年の締めくくりでありますように。



年末の慌しい真っ最中に、まったく急がない内容のブログ記事を書く。

gooには、自分の「ブログ人気記事ランキング」というのが、ご丁寧に設定されていて、
懐かしい記事が入っていたりすると、それを読むのが意外に楽しい。

中身は自分のことなので、自分の記憶とぴったり鮮明に一致している(あたりまえ)。
年々、記憶が衰えているし、はっきりちゃんと細かく描写する意欲が薄れてきているので、
過去の記事を読むと、今では忘れてしまっているような当時のことを思い出させてくれて、ありがたいような気さえする。
ありがとう、筆マメのわたし。
ついでに、提供者のgooさん。


わたしは、自己評価が低い。
真の自分の力を知らずに、自慢しているひとほどみっともないものはない、
謙虚は美徳だと、無意識のうちに思っているからかも知れなかった。
(本来は、適正な自己評価が望ましい)

ところが、それは謙遜ではなかったということに気づいた。
これは、ある人に指摘されて気づいたことであり、指摘されなかったら、一生、気づかなかっただろう。

努力するのが嫌だから、低めに自分を設定しているらしい。
なるほど、頑張らない自分の快適な特等席を、自分で作っているということだ。
実は頑張ればできるのだが、超サボりのため、頑張らない。努力嫌い。
じゃあ、目標設定を下げよう、ついでに自分の評価も下げとこう。
そうすると、楽々、心痛まなくサボれる。
という、カラクリであって、決して謙虚でも、謙遜でも、なんでもなく、サボりの裏工作のようだ。

サボりは、前々から自己認識していたが、無意識の美徳であろうはずがなく、
策略、ずる賢いと評価された。
人にどう思われてもよく、ただただサボりたいだけのこと???。
さほど努力しないで、最低限度の頑張りで、目標値に達するための、言い訳であると言える。

そこで、思う。
世の中の皆さんは、いったい、なにを基準に自己評価しているのだろう。
60歳ぐらいで初めて壁にぶち当たった人もいるとか。
まあなんと、幸せな???。

わたしは、なんの言い訳もできない状況で、いくら頑張っても自分の能力がはっきり見えた原体験がある。
それは、子供のとき。
社会のせいにしたり、家庭事情のせいにしたり、自分の身体のせいにしたり、
そういう外的要因を取り除かれた状態で、状態が整えられた滅菌、無菌室で、
よ~し、頑張るぞ~と、勉強に挑んだ。
なかなか、結果が出ない。
頑張りなさい、と、背中を押されて頑張らされた。
小学校の高学年の頃から、勉強に関しては雲行きが暗くなりそうな気配はあった。
苦しい脂汗をたらしながら、どうにか乗り越えたものの、中学で、またその波が襲ってきた。

別にプレッシャーでつぶされたのではなく、完全に能力の無さで、自分の敗北を知った。
それは、中学2年の時の理科。頑張るだけ頑張ったが、だめだった。
返されたテストを手に、涙が出た。悔し涙ではない。現実を受け止める涙。
そして、高校2年の時の数学。
これは、完璧にアウト。
わたしの芯、核は地中深く埋もれたまま残っていたとは思われるが、
外に見えるものは、そこで完全にゼロになった。
無からの出発である。
自分の能力を知った。

(小学校の社会科や、高校の時の日本史や地学などは、
どうしようもない、すごい悪い成績だったが、これがまた不思議に、けろっとしていた。
努力していなかったので。
一生懸命、苦手なことに挑戦して力の限りを振り絞ってやったことが、だめだった場合においてのみ、愕然となる。
努力して報われなかったことを受け入れることを知った。
だめなものは、どうしたってだめ、ってことだ)

精神的に、自己を形成する誇りは、無一文になったということだ。

幸い、一家離散したわけでも、不幸な事柄に見舞われたわけでもないので、
その後も、物質的にも、精神的にも、普通の人生を送っている。

というわけで、子供の頃に、一度、無になっているので、わりと打たれ強い。
自分のことを気づくのが早い年齢だと指摘する人もいる。

勘違いしている人を見ると、みっともなく我がことのように恥ずかしい思いに駆られる。
でも、勘違いしないと伸びない。
勘違いする時期は必要であるし、大事だ。
勘違いしたままの人生が、ほんとうのところは、幸せだ。
勘違いが妙に揺らぐと、ややこしい。
うっすら気づいても、気づかないふりをして、一生、突っ走ったほうが、楽だ。
残り時間のほうが短くなっている今の年齢で、自己?大改革を行っても、成し遂げる体力が無い。
だましだまし、ぼちぼち行くのが、よろしいかと。

と、またまた省エネ、サボりのススメとなってしまった。

追憶すると、
わたしの頑張りは、子供時代の後、あと3回あった。20代中半&後半、40代。
あとは、動物園のクマのごとく。
頑張る時には頑張らないと、たんなる、どうしようもない人である。

さらに、追加。
兄や姉のように、家庭教師をつけてもらっていたら、ちょっとは違っていたかも知れない。
(アウト!の最期が延びるだけだと推測できるが、いや、ひょっとして???? 進路が変わっていたかも?
甘いか)
が、親は見抜いていたと思われる。
わたしには、砂に水をやっても、溜まらず、漏れ抜け落ちるだけだということを。
実際のところは、もう、面倒になったのだろう。
あんまり一生懸命、わたしのことを考えていない可能性も大いにある。
早い話、手をかけても、結果的には早く自分を知ることになった。



昨日、テレビで流れているニュース。

内縁関係にある女性を殺した男性。
これだけ聞くと、よくある話だ。

殺害当時、内縁の妻、82歳。
男性は、自首した現在52歳ということだから、当時50歳。
32歳の歳の差。30年に及ぶお付き合い、同棲。

女性が認知症状が出てきて、それもあってか、寝ていた枕で口?鼻を押さえ窒息死させたようだ。
犯行当時は事件として扱われていなかったと見られる。
2年経った今、男性が、殺した女性が夜な夜な夢枕に立ち、仕事が手に付かない、と自首した。
自首した時の男性は、青ざめていた顔から、ほっと安堵の表情に変わったとか。

男女の年齢が逆のケースは、よく見られる。
女性20歳、男性52歳。
東南アジア外国人妻を持つ、日本人男性は、こういう年齢。
知人の知人(まったく知らないアカの他人)で、
フィリピンパブに通う男性が、二人目のフィリピーナと結婚するとかしないとか。
(ちなみに、わたしは、そういう傾向の男性を苦手とするし、わたしの人生において全く接点がない)

もっと男性のほうが年齢が上の場合もある。
経済的に貧困にあえぐ発展途上の国々で聞いた話では、赤ちゃんが生まれると女の子だと、とても喜ばれるそうだ。
これといった産業も無いので、女性がおカネ持ちと結婚して一家を繁栄させる。
ビジネスとしての結婚。
「本妻業」「後妻業」の、事件沙汰にならない、殺人が絡まないバージョンか。

が、今回の事件は、男女の年齢が逆。
若干20歳の若者が、52歳の熟々の熟女と出会い、ずっと一緒に住み、内縁関係を続ける。
母親より年上である。
よほどマザコンだったのか、特別な事情があったのか、捜査が進むにつれ、詳細は明らかになることだろう。

???

ここで、蝶ブログ記事を終えるという方法もある。
が、自分の感想を書きたくて、うずうず。

一般論として、年下の男性をゲットできるのは、「女の甲斐性」「女性が憧れる女性像」みたいに捉えられている面もあるが、
わたしなら、年下男性は、NG。(同世代程度の年下なら問題ないが)
50代で20歳の男性など、とんでもない。
お小遣いを渡して、サービスしまくって、気を使いまくって、
若い女性では得られないプラス面、優遇サポートを必死で与えようとするだろう。
人生で進みたい道を切り開くお手伝いをしたり、その道で活躍する方法をアドバイスしたり、なんらかの形で、
キャリアの無い若い年齢では体験できない、社会の先輩としての、特権みたいなものも、振りかざすかも知れない。

ある程度、育ってくれて、自立したその時には、男性の年齢に相応しい女性と結ばれるだろう。
それをにこやかに応援しながら、「わたしを卒業、おめでとう」と祝福するなんて、出来そうもない。
(自分の実の子供に対しては、すんなり「おめでとう!」で、やれやれ、肩の荷が下りたけれど。
責務を果たした安堵感はあるものの、それに対して見返りは期待していないから)

世の中には、こういう男女、けっこうあることかも知れない。
ドラマではこのネタ、嫌というほどお目にかかる。
ストーリー的には、おカネや愛憎が絡んで、ろくな展開になっていない。

社会バージョンを絡ませない、家の中だけに集約するとしても、
男性と女性、同じ年月を過ごすと、同じ年齢を重ねる。
当然、歳の差は縮まらない。
老いの実態、哀しみなんぞ、絶対にわかってもらえない。
仲の良い親子でも、親の老いの実態に、驚愕するのに。
くしゃみや咳ひとつするのでも、年寄りじみたその仕草が、カンに障るかも知れない。
食器の洗い方があまりキレイになっていなくても平気だったり、部屋の掃除やお風呂も、清潔ではなかったり、
若い頃とは違う、そういう自分の身の回り全部に、気を使ったり、理解できないだろうと思ったり、
そんなことを毎日感じながら、とてもいっしょに生活できない。

これは、「老い」バージョンであるが、
「男女の愛」熟女バージョンの時は、まあ、それなりに若い女性にはない良さもあることだろう。
が、若い女性には、女性としても、能力としても、絶対に負ける。
閉経後は、子供も生めない。
むしろ、そんな自分と別れない、うら若き男性がいるとすると、理解の範疇を超える。
だから、そもそも接点はないと思われる。
社会的なことを目当てに擦り寄ってきたとすると、こちらが警戒してシャットアウトする。

なので、自分にはありえない展開の事件、組み合わせとして、この事件は興味を引いた。

世の中の人も同じようなものだろうと思われる。
昨日は祝日であるにもかかわらず、家人がゴルフがなく在宅だったため、テレビ垂れ流し。
その中での、ある朝の民放?情報番組で、このニュースをわざわざクローズアップし、取り上げていた。

どんな新しい情報が加わるのかと一生懸命見ていたが、(わたしもヒマジン)
なんてことはない。
すでに報道された、ほんのわずかな情報を、ただただ大きな文字で、大きなボードに貼り付けているのみ。
表にするといっても、文字を、枠に入れたのみ。
わざわざ文字にする必要がどこにある?
別に複雑な内容を時系列に沿って説明するために、補足として必要とか、そんなことは、まったくない。
ボードを指差して、なにか詳しい説明が中文補習あるかと思いきや、まったく、一切なかった。
しかも、コメンティター的な人が何を言うのかと思いきや、
考察も分析もない、こころにもアタマにも、まるで響かない、ただ、テレビの前の視聴者同様、したり顔で説明を聞くだけの、のぺっとした対応だった。
ほんの一言でもコメントを発して欲しかった。
(ホンネや好きなことを言うと、叩かれるから、言う前に口にチャックしているのだろうけれど。
あるいは、無関心、興味なしで、時間が過ぎればよし、とコメンティターとしての意識が低いか)

で、朝の情報番組をいつも見ている視聴者の平均像が予測できた。
そうとう、なにもすることがない、テレビしか見ない、かなり高齢の方々のようである。
番組制作者から、なめられている。
適当な生ぬるい、いいかげんな番組でも、テレビを見ることしかしない視聴者は、見る。
テレビからどんどん人は離れていき、どんな番組でもいいから、それでもテレビを見る人だけが残る。
質は低下するばかりだ。
(ううっと唸るほど、良い番組もあるが)

が、こういうことを長々、延々と書たしも、テレビを見るしかすることがない皆さんと、あまり変わりがないと思える。
めくそ、はなくそを笑ってはいけない。
そんな資格は決してない。

同じ穴のムジナ。
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