今も昔も、苦手で、大嫌いな勉強。
小学校の高学年の頃、個人面談で、母が担任の先生に
「スローは、勉強しとらん。お母
灣仔SALONさん、スローが、もっと勉強するように、家庭でもバックアップしてください」
みたいなことを、言われたそうだ。
だからといって、その日から、母がわたしにハッパをかけたかというと、
母は、なんと、
「あんたの学校に行くのは嫌だ。先生に、お小言を言われるから」
と、逃げの一手。
こんな母親、ある?
そういいつつ、無言のプレッシャーが、常々、わたしのまわりには渦巻いていた。
で、当時、「サボっている、成績が悪い」と先生から責め苦を受け続けていた。
でも、(学校で指導されていること
HKUE ENG以外には)、特別にわたしは、これといったことはしなかった。
ある日のこと、先生に突然、言われた。
「スローさん、頑張ったね。ようやく一生懸命勉強したことが実ったようで、よかったね」
は?
先生って、なにをいったい見ているんだろう? なにを基準に生徒の行動を評価するんだろう?
小学生のわたしは、とても不思議だった。
行動はまったく同じなのに、叱られたり、誉められたり。
大人って、いったい、なんだろう?
それが、わたしの大人不信、先生不信の
HKUE ENG始まりだった。
先生は、結果だけを見て判断しているということだ。
プロセスは、まったく見ずに、知らずに、成績の結果だけを見て、評価する。
わたしは、子供なりに思った。
なあんだ、結果が全てなのね、と。
でも、身に覚えのない結果に振り回され、わたしは、困惑した。
おそらく、今、想像すると、当時、わたしは、踊り場現象で、スランプ、停滞していたのかも知れない。
結果が、即、出るタイプではなく、タイプだったのかも知れない。
自分で取った行動を意識していないので、結果をつきつけられても、なんのことか、わからず、
はあ?と、なったのだろう。
無意識の行動でも、客観的に結果が出れば、他人は、それで判断する。
そういうことだ。
ちょっと、回り道くねくね、遠回りしすぎた感があるが、
自分ではどう思おうが、他人は、他人の目で見るってことだ。
自分=主観的 他人=客観的
なので、「わたしは、ブログにウソは書きません」と、鼻を膨らませて必死で言ったとしても、
自分の主観的な世界でのお話なのだろう。
他人は、ウソであろうが、本当であろうが、リアルなわたしを知らない人には、どっちみち、わからないんだし、
リアルな人から見れば、あれれ?となる。